セコさと意地だけで挑むマラソン大会や、しみじみとした日常を綴ります。



   
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まんた1968

Author:まんた1968
数年前からランニングを続けている奈良県在住のオッサンです。
年に二、三回ですが、ウルトラマラソンにも挑戦しています。
タイムは凡庸なものですが、完走を目標に意地で走りつづけることを得意としています(笑)。

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歴史の目撃者

   
 夜叉池伝説マラニック翌日の7月25日(月)、大垣駅前のビジネスホテルで目覚めた私は、ちょっと思うところがあって、「美濃赤坂」へ行くことにした。

 少しでも涼しい内に行きたかったので、早めにチェックアウト。手荷物を大垣駅のロッカーに預け、手ぶらでJR美濃赤坂線のワンマンカーに乗車。
 この電車は、大垣駅のホームの端っこの、おまけのような場所に発着するので、乗り慣れていないと、既にして電車がホームに来ていることさえ気付かない可能性があるので要注意。そう言う私も発車間際に気付いて、大慌てで飛び乗ったのである。

 目的地の美濃赤坂までは駅にして二駅。大垣駅の次が荒尾駅、その次が美濃赤坂駅で終点となる。路線距離はたったの5km。これだけのためにJRは、東海道本線から線路を分岐させているのである。ちょっとビックリ。しかも荒尾、美濃赤坂ともに無人駅ときた。かなり強引な線路敷設である。
 かつてこの方面に、余程の「有力者」でもいたのかしらん?……と想像したが、調べてみるとそうではなく、大正8年に、美濃赤坂で採掘される石灰石や大理石を輸送する目的で敷設された路線らしい。
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 美濃赤坂駅から西へ少し行った所に「金生山(きんしょうざんは通称で、かなぶやまが正式名称らしい)」という標高217mの山が聳えており、太古の地殻変動によって隆起したとされるこの山は、豊富な化石と共に、上記の石類も産出するのだ。

 美濃赤坂駅は無人なので、切符を回収箱に入れる。月曜の午前中ということもあり、周辺に人影はまばら。不気味なほどの静けさが漂っている。
 それでもここは、江戸時代に中山道の56番目の宿場町(赤坂宿)だった場所でもあるので、訪れる人も多いのか、駅舎にはレンタサイクルが設置されている。

 借りようかとも思ったが、手ぶらだし、マラソンのダメージもかなり癒えたので、歩くことにした。それに私の目的は、赤坂宿の風情を訪ねることではなく、「古墳」にあるのだった。そう、久々に真夏の古墳に登ってみようと思ったのだ。
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 美濃赤坂駅から旧中山道に沿って真西へ歩くことおよそ25分、『昼飯大塚古墳(ひるいおおつかこふん)』は、中山道の南側に、ほぼ寄り添うような形で横たわっている。
 周囲は閑静な住宅街で、古墳は国の史跡に指定されており、古墳公園として整備されている。
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 古墳時代前期末~中期に築造されたと考えられるこの古墳は、東海地方最大級の前方後円墳で、全長は150m、後円部の墳丘の高さが13mを数える。
 被葬者は3名とされているが、この時代の例によって、詳細は不明。現在、後円部の一部分に周濠や葺石、円筒埴輪列が復元されており、築造当時の全貌をイメージし易いようになっている。
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 後円部に登り、西側に張り出した撥形の前方部を眺めおろす。あいにくの曇り空だったが、快晴の日には、この前方部の延長線上に、関ヶ原の古戦場跡や、近江の伊吹山まで見渡せるという。逆に東へ目を転じれば、岐阜城を有する金華山の姿までも。
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 「古墳に意志を仮定する」なんて馬鹿げたことに違いないが、それでも尚「古墳が意志を有している」と想像するならば、昼飯大塚古墳は4世紀の時代から中山道にほど近いこの場所に居座り、今日に至るまで、数々の歴史的事象を目の当たりにしたことだろう。
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 例えば岐阜城の織田信長が、近江の六角氏を討ち、上洛する際には、きっとこの古墳の側を軍勢を率いて通っただろうし(その頃は中山道でなく「東山道」と呼ばれていた)、安土に城を築いてからも、岐阜との往復で、度々この辺りを行き来したはずである。
 また、関ヶ原の合戦では美濃大垣城を発した軍勢がここを通過し、江戸時代になると参勤交代の大名行列が、幾度となく、この古墳の裾野を通ったのである。
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 当時この古墳は、果たしてどのような姿をしていたのだろうか? 古墳であることが確認され、発掘・整備が始まったのが昭和の後期とまだ新しいので、それ以前は、「いわくのある」竹の生い茂った小山のような存在だったのだろう。
 つまり信長も、江戸時代の西国大名たちも、この脇を通過する際には、「雑木の丘」といった程度の認識で、昼飯大塚古墳を見ていたことになる。いやそもそも、それほど注意を払っていたとは思えない。
 歴史に翻弄される彼らの姿を眺めていたのは、もの云わぬ古墳の方なのである。

 だがその昼飯大塚古墳でさえも、順序からするなら、中山道を挟んで北側に聳える「金生山」に、その誕生から滅亡までを観察されていたわけである。太古の時代に誕生した化石・鉱石の山は、この土地の豪族が人々を動員し、人海戦術で巨大なピラミッドを築き上げるその一部始終を、ただ無言で、淡々と見つめていたのである。
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 だから私は、古墳に次いで、ルーツを追い求めるかのように金生山へ登ってみた。坂道は急で、マラソン明けの足には堪えたが、それでも汗だくになって展望台に辿り着いた。
 東に向けて設けられた展望台からは、濃尾平野が一望できた。
 あいにく岐阜城までは見えなかったが、その方面から、蝉の鳴き声の合間を縫って、馬軍の響きが聞こえてきたような気がした。それが織田勢のものか、美濃斎藤のものか、あるいはそれより遥か昔に遡る調べなのか、知る由もなかった。
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