セコさと意地だけで挑むマラソン大会や、しみじみとした日常を綴ります。



   
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まんた1968

Author:まんた1968
数年前からランニングを続けている奈良県在住のオッサンです。
年に二、三回ですが、ウルトラマラソンにも挑戦しています。
タイムは凡庸なものですが、完走を目標に意地で走りつづけることを得意としています(笑)。

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苦渋の遺構

   
 正月三日目、散歩がてら、天理市まで古墳見学に行ってきた。
 近鉄電車で平端駅まで。そこで近鉄天理線に乗り換え、終点の天理駅までわずか三駅。

 天理本通商店街はお正月の飾り付けが施され、琴のBGMが流れていた。
 目的の古墳は『西山古墳』で、商店街を通って国道169号に出てから道沿いに南下、守目堂のバス停を過ぎた辺りで左折、住宅地の坂道を東へ向けて登っていく。
 駅から目的地までは徒歩で20〜30分。古墳の北隣には、天理大学馬術部の馬場がある。
 西山古墳は機内では数少ない『前方後方墳』である。が、日本で現在確認されている前方後方墳の中では最大であり、墳丘の全長190mを誇る。
 国の史蹟に指定されているが、天皇陵ではないので立ち入りは自由である。
 太平洋戦争中は高射砲陣地が築かれていたらしいが、形をそれほど損なうことなく保存されていると言えよう。
 対して北側の「塚穴山古墳」は、ほぼ半分しか原型を留めていない。
 早速、墳丘に登ってみる。正月に、しかもマイナーな古墳をわざわざ訪れる人もいないわけで、当然周囲は静まり返っている。墳丘の表面は草刈り後の枯れ草で厚く覆われており、スニーカーでは結構歩きにくい。草は大半が萱のような種類で、刈り残された根元が針のように突き立っているので尚更である。

 後方部から前方部を撮影。
 次いで前方部から後方部を撮影。
 上の航空写真だと解りやすいが、西山古墳は「前方後方墳」と言っても、ちょっと特殊な構造をしている。後方部の墳丘の形状に注目すると、一段目は確かに「方形」なのだが、二段目からは「円形」になっているのだ。つまり、「前方後方墳の上に前方後円墳が載っている」という、かなり風変わりな構造をしているのだ。

 西山古墳は古墳時代前期に築造されたと考えられている。その頃、機内では、箸墓古墳を初めとする前方後円墳の築造が隆盛し、関東・東海地方では、それと同時期に前方後方墳が数多く築かれ出した。
 それ故に邪馬台国大和説を唱える研究者には、前方後円墳は「邪馬台国連合のシンボル」であり、対して前方後方墳は邪馬台国に敵対した「狗奴国連合のシンボル」であると主張する人もいるらしい。

 私は邪馬台国北九州説派なのでそうは考えないが、それでも前方後円墳発祥地と考えられている大和の、ほぼ中心部に、何故西山古墳のような前方後方墳が存在しているのか?、という当然の疑問は残る。前方後方墳の中心地が東日本であることは、間違いないからだ。
 そこで『物部氏』という古代豪族の存在が浮かんでくる。西山古墳のあるこの辺りは、近くに石上神宮が存在することからも解るが、物部氏の本拠地だったことはほぼ明らかである。
 物部氏の始祖は神武天皇の大和征服で、その軍門に下った「饒速日命(ニギハヤヒノミコト)」と言われている。要するに、大和の元々の統治者だったわけだ(私は「長髄彦」が元々の統治者で、饒速日命とて征服者だったと思っているのだが)。

 一段目の方形に、苦肉の策のようにして円形を重ねる……といった西山古墳の奇妙な造りから想像するに、屈服したとはいえ、この古墳を築造した頃までは、物部氏に、ほんの僅かでも「反抗心」のようなものが残っていたのではあるまいか。
 だからこそ支配者に従わず前方後方型の墳墓を造り上げようとした、が、「刃向かうとは何事ぞ!」と圧力がかかり、造成半ばで支配者の意向に沿った前方後円型に変更した、そうは考えられないだろうか?

 もしそうだとすれば、西山古墳は、「過渡期物部氏」を象徴する重要な古墳であると言える。支配された者の苦渋が詰まった遺構とでも言おうか。
 だから前々から気になっており、一度登ってみたいと考えていたのだ。それがやっと叶い、良い正月を終えることが出来た。

 大和朝廷発祥期を解明する鍵は、意外にこういった大和のマイナーな古墳にあるのかもしれない。

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